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おとなのおもちゃ
2006-02-14 Tue 20:22
たとえば、子供がおもちゃを買ってもらう。
人形であったりサッカーボールであったりゲームであったり。子供はそれが世界のすべてであるかのように遊び続ける。
年を追うと、子供はそのおもちゃに飽きて、別のことに興味を移し始める。それは往々にしてそれまで遊んでいたものより大人の領域に近づいたものに変わる。またそれに飽きると子供はさらに大人に一歩近づいた遊びに移行する。
これは子供の精神の成長に推移する。おもちゃからおもちゃへ、子供の遊びは発展してゆく。そしてある時点で、おもちゃそのものから卒業する。そのとき、人間は大人になる。

子供は必ずおもちゃからの卒業がある。おもちゃは必ず飽きられていかなければならない。そうでなければ子供はいつまでも大人になれないからだ。

我々にとって、演劇はおもちゃであった。どうしようもなく面白いおもちゃであった。
おもちゃには必ず卒業が訪れる。自分の興味が何かの学問に移り変わったり、社会に出たり、おもちゃはあくまでおもちゃでしかなかったりで。

しかし、我々子供はそのおもちゃに飽きることができなかった。卒業できなかった。
しかしもはや、我々は子供ではいられない。世間や自分の肉体や精神が、もう子供であることを許してくれない。それでも、このおもちゃをどうしても手放すことができない。これを手放すことは、我々にとって、ある意味自分達の人間性の否定になるからだ。人間は肯定の中でしか生きていけない。

ついに我々は選択する。おもちゃを抱えたまま生きてゆくことを。
しかし、おもちゃは子供のものであり、大人に許される持ち物ではない。
ジレンマの中で我々はおもちゃをおもちゃでないものに転化する作業に入る。このおもちゃを商品として世間に営業をかけ始める。同時にそのおもちゃの値段を上げるために質の向上に努め始める。
じきに大人たちはこのおもちゃを無視できなくなる。大人であってもおもちゃは面白い。大人は我々がおもちゃを持ったまま社会にいることを許し始める。
だが、大人がおもちゃを抱えて生きるのはルール違反である。しかし我々が提供するおもちゃは楽しい。そこで大人はこのルール違反のおもちゃを「文化」とか「芸術」とか呼ぶようになる。

大人が子供に帰り、一時の安らぎを得る為には必ずおもちゃが必要である。普通の大人はおもちゃを抱えたまま社会にいることは許されない。そこで、おもちゃを抱える専門の人間を作り、時々彼らからおもちゃを貸してもらうのである。

しかして我々はおもちゃを抱えたまま大人であることを許される。
これは子供であることを許されたのではない。おもちゃを管理しながら大人でなければならない。
そこに甘えは許されない。どんな言い訳も通用しない。
稽古があるなら絶対に休むことはできない。体調が悪いとか、バイトがあるとか、何かしら用事があるとか、それは子供の戯言である。
おもちゃを抱えて大人でありつつけるということは、ある意味でそれ以外は何も許されないということだ。
それを覚悟した上で、我々は芝居をしなければならない。
我々一人一人が社会に許されたおもちゃの創造の場。そこにいないということが、それがすでに罪である。


なんだかよく分かりにくい話をしてしまいましたが、最近考えていたことをちょっとまとめてみたいと思って書きました。
これはかなり偏った考え方ですし、理想論ですし、すべてがこのままではないんですけどね。
ただ、演劇に特化して考えたときに、一流の演劇人と我々の違いはなんだろうと考えていました。だいぶはしょってはいるけど、大体こういうことなんじゃないかと。
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